こちらの【闘病日記】にある「どこまでがんばるか?」という記事を読ませていただいた。
今日は、こちら↑の記事のリンクを
ブログの管理者さんからご了解頂いたので
昨年、私がラファールの最期を決心するに至るまでに
励ましのメールを下さった
多くの同じような経験をお持ちの飼い主さんたちに
先の記事を御紹介したいと思い
リンクさせていただいた。
先のブログの管理者さんのHPには
以前、犬の毛色遺伝子に関する細かな記載があって
私がオゥシーに興味を持ち始めた当初
参考にさせていただいたりしていたので
ブログ村で管理者さんのハンドルネームを見つけたとき、
あっ!あのHPの方かな?と思って
ブログ村にアップされていた記事のタイトルと
管理者さんのハンドルネームに誘われて
記事のリンクを開いたのだったが、
一年ほど前、まだ、二歳にも満たなかったラファールを
送らざるを得なかった
あの不運以外の何物でもない
忘れたくても忘れる事など到底出来ようはずも無い
あの悲惨な出来事について
当時、自分の選択は正しかったのだろうか?
別の何かを選択する道は有ったのだろうか?と
今でも頭の中では自問自答が続いていたりするのだけれど、
先の記事を読ませていただいたとき
今こうして当時の危機から離れたからこそ
そんなことをあれこれ考えたりしているわけなのだが
当時は、問題に直面していた状況に
今よりもっと切実で真剣に考えていたのだし
それで下した決断だったのだから
それが正しかったのか正しくなかったのかについては
相変わらず疑問だったりするのだけれど
解っていることは
飼い主として自分の精神力の中で
やれることはやりつくしていて
あれ以上のことは出来ないというところまで追い込まれていたからこその決定だったのだから致し方なかったのだと
不本意ながら自分を納得させるに至っている現状に
何かこう一つの指針を見たような気がした記事だった。
終り無き自分に対する質問。
答えの無い堂々巡り。
そんな自分にも
この記事を読んだとき
何故だかスッとそれが胃の腑に入って
気持ちを落ち着かせてくれるような気がしたのは
やれるところまでやるということが
自分の中にある未消化な部分を
オブラートに包んでは
こちらの胃の腑に納めてくれた理由なのかな?とか思ったりした。
そのときやれる最大限のことをやっているなら
それ以上やれる事が無くなったと言う場合には
それが正しい選択なのだと諭してくれているかのような
そんな安堵感を覚えたりした。。。
後に後悔を残したくなかったら
その時点でやれることに
最大限の努力を払っていなければダメだと言う点だけは
動かしようの無いポイントになろうか。。。と。
他人から見れば、
もっと出来たと思うこともあるだろう。。。
けれども、問題は
介護している本人の
時間的
身体的
精神的
経済的な限界点によって
やれることというのは違ってくる。
同じような症状であっても
介護する側の耐性や
置かれている環境によって
やれることの限界というのは
人によって違っていて当たり前なのだ。
自分はもっと頑張った!と思ったとしても
それは貴方だったから
そこまで頑張れたということなのかもしれないし、
同じような症状で
まだ頑張っている飼い主さんが居たからと言って
限界を感じている自分に落ち込むのも
それは違うと思う。
介護を受けている愛犬が
苦しむことなく
介護する自分がやれる事があるうちは
頑張り時。
そのバランスが崩れたとき
切ない決定をせざるを得なかったとしても
それは仕方がないことだろうと思う。
頑張れなかったからと言って
自分で自分を責めるというのも
他人から責められるというのも
違うなと思ったりする。
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